<第10-4章:January(4)> Shiori's EYE 喫茶店を出たわたし達は帰宅の途へ。 武雄君の叔父さま(喫茶店のマスターなんだけど)が新メニューの名前をあん なのにするとは思わなかったわ。恥ずかしい・・・でも・・・ちょっぴりうれ しいかな。 後で聞いた話なんだけれど、あの新メニューってわたし達の名前がついている から面白がってみんな頼むんですって。演劇部で一躍有名になった(わたしは そんなこと思ってないんだけど)人間の名前がついたメニューだって・・・。 で、みんな叔父さまに聞くの。何でこんな名前がついているんですか?って。 叔父さま曰く「俺みたいになって欲しくないからさ」と。誰も意味がわからな かったらしいけど・・・わたしはわかる。武雄君にもわかるけど、武雄君はき っと興味がないわよね。 ・・・武雄君の叔父さまはまだ独身なの。 いいえ、独身を貫いていると言った方が正しいかしら。あれは・・・台風の日 の夕方。いえ、夜のことだったかしら・・・ ☆ ☆ ☆ ☆ わたしが中学3年の8月のこと。あ、まだ一昨年の話よね。わたしは塾から帰 る途中のこと。その日は台風で歩くのもままならない状態だったわ・・・。外 は土砂降りで傘を持っていてもまともに歩けないような状態。そんな時に見え たのが、ひとつの喫茶店。「ときめきの午後」と書かれた小奇麗な喫茶店。中 は真っ暗だった。あまやどりにちょうどよかったので軒先を貸してもらったの。 かさをたたんで服についた水滴を払う。もうビショビショ。ちょっと雨脚が弱 くなるのを待って走ってかえりましょ。そう思いながらぼうっとしていると、 「カラーン」と喫茶店のドアが開く音。 中から出てきたのは眼鏡をかけた青年風の男の人。 「大丈夫かい?中に入りなさい。夏とは言え夜は寒いからね。雨が弱まるまで 中にいるといい」 正直戸惑った。最近そんな手口で、女の子に変なことをする人が増えているか ら・・・そんなことを考えているとその青年風の人は察知したのか、 「大丈夫、なにもしやしないから。僕はここのマスターだよ。なにかあったら 警察にでも訴えればいい。身元は割れてるんだからね。さぁ、入った入った」 一瞬でも変な想像をしてしまったわたしが恥ずかしかった。 「・・・ありがとうございます。お言葉に甘えて中に入れさせていただきます」 なかはろうそくの炎と懐中電灯の明かりだけが店内を照らしていた。薄暗い店 内。20人も入ったらいっぱいになろうかという広さだろうか。カウンターは 5席くらい。小奇麗な店で店内はアンティークなオブジェなどが飾ってある。 「まぁ好きなとこ座ってよ・・・っても困るか。じゃぁカウンターにでも座っ て。いまコーヒーつくるから」 「い、いえ。そんな・・・」 「まぁまぁ遠慮しないで。こういう時は遠慮しないのが子供ってもんだぜ」 マスターだというのは嘘じゃないようね。なれた手つきでコーヒーを淹れてい る。3分としないうちにわたしの前にはコーヒーが。 「モカだよ。嫌いかい?」 「い、いえ」 モカ。コーヒーの種類だとは知っているけどさすがにコーヒーの味まではわか らないわ。 「ちょっと酸味が利いているけど、柔らかい口当たりなんだよ。まぁアイスと かでもモカって書いてあるから知ってはいると思うけどね。あ、そうそう。い ま停電中なんだよ。だから作りおきのお湯しかなかったからちょっとぬるめな のは勘弁してな」 「い、いえ。わざわざすみません。いただきます」 さっきまで疑っていた非礼をお詫びしたの。 「あっははは。そんな風にとられたかぁ。まぁ確かに物騒だからねぇ。しょう がないよなぁ。そんな風に取られても」 「本当にすみませんでした」 「気にしない気にしない。ほいほいついていっちゃう娘よりよっぽどいいよ」 「はぁ・・・」 なんだか面白い人。コーヒーに口をつける。あ、おいしいんだ・・・おいしい コーヒーって始めてかもしれないわ。そしてクラッシック音楽の話で盛り上が る。マスターもクラッシック音楽が好きみたい。 「ところで、塾か何かの帰りかい?高校受験かなにか?」 「そ、そうです」 この人はいい人みたい。隠しても仕方ないので素直に話すことにしたの。 「ほう。僕の甥もことし高校受験だったなぁ・・・で、どこを受けるの?」 「きらめき高校です」 「ほう。立派なところを受けるんだねぇ・・・あれ?うちの甥もたしかそこ、 狙ってたなぁ。大して実力もないのに」 「そんなことわかりませんよ。努力すればだめなことなんてないですから」 マスターは一瞬顔が翳った。わたしは見逃さなかった。店内は暗かったけど。 なにか悪いことを言ってしまったかしら・・・ 「そうだね。努力すればきっと実るよな・・・きっと」 半ば自分に言い聞かせているようだったので、それ以上話しを続けられなかっ た。はっと気づいたマスターは頭をかきながら、 「あ、ごめんごめん。つい自分の世界に入ってしまったね」 「あ、いえ」 「こんなことを君に話しても仕方ないんだけど・・・聞いてくれるかい?」 マスターは切々と語り始めた。恋人がかつていたこと。相手の女性はいいなづ けがいたのだが、マスターと恋に落ち、駆け落ちしてきたこと。絵画の修行を するためにパリへ行く途中自動車事故で亡くなったこと。それ以来他の人を好 きになることが出来なくなったこと。それ以前からこの喫茶店を経営している けれども、ずっとその恋人を待ちつつ日々を過ごしていること。 「ごめんね、くだらない話しをしちゃったね。退屈だったろう?」 そんなことない。なんだかロマンティックな話し・・・でもやっぱり最愛の人 を亡くすのは悲しいもの。 「ありがとう。聞いてくれて」 「いいえ。これからも遊びに来てもいいですか?」 「ああ、いいとも。こんな奴でよければ遊びに来てくれよ」 カシャッ。 「あ、停電がなおったな?」 店内に照明が入る。やや暗めの大人の雰囲気の店だ。明るくなって始めて全貌 を見渡すことが出来た。 「そうそう。この店平日はきらめき高校の生徒でにぎわうんだよ。受かったら 制服姿であらわれるんだろうねぇ、君も」 「ふふっ、そうですね。そうなるといいんですけど・・・」 「そうだね。受かるといいね・・・さて、雨も弱まったみたいだし、ご両親も 心配する。早く帰りなさい」 「はい。本当にありがとうございました」 「いやいや、気にしない。僕だって停電中で寂しかったのさ」 「くすくす・・・」 思わず笑っちゃった。 「笑うなって。夜の喫茶店ってのは怖いんだぜ。特にひとりでいると」 「あ、ごめんなさい。・・・でもまた遊びに来ますね」 「ああ、待ってるよ。うんとサービスするからね」 「それじゃぁ失礼します。本当にありがとうございました」 ぺこりと頭を下げるとわたしは「ときめきの午後」を後にしたの・・・雨もほ とんどあがっていたのですぐにうちについたけど・・・両親にはあまやどりし てきたということにしているけど・・・本当のところはひ・み・つ。 マスターが武雄君と親戚関係だと知ったのは高校に入る直前のことでした。わ たしも驚いたけど、マスターも驚いていたみたい。でも一番驚いていたのは武 雄君本人なんだけどね。